Taker.

趣味を大切にしたい。

哲学

昔から思っていた事が漸くまとまりそうなのでまとめていく。稚拙な文章で申し訳無い。自分も出来る事なら正式な論文に記されているような高尚な文章を用いたい所だが生憎、今の私にそんな才能はない。今後の努力次第である。さてさて本題に入ろう。お題はズバリ!『一つのシンプルな命題で人の真理を表すのは可能なのか!』というテーマ。簡単に言いますと『真理を一言で語る事は可能なのか』。このテーマには真理は存在するという前提がありますが、これは僕の直感です。真理の有無をまず考えろと仰る方が多いでしょう。真理の有無の答えを見つけるのは簡単ではない。というか理論では解けない問題だと思います。非ユークリッド的な、所謂『神秘主義』的な何かでしか解けない。胡散臭さで知られる『神秘主義』の中にも真なる答えは隠れていると思います。これもまた直感ですが。この直感を正しいと感じるのも直感ですが。こうなると感覚的な好き嫌いの問題になってくるような気がしますが、まぁそこは多目に見てください。私はまず『直感的に真理は存在する』と思います。前提がグラグラですが、私は根拠のない自信を持っています。そして、仮に真理が存在するならば、『その真理を一言で表すのは可能なのでしょうか』。例えば『愛』が真理だとしましょう。この一つさえあれば人生が必ず善い方向に向かっていくとしましょう。だとするならば全員がその『愛』を頭に思い浮かべておけば良いということでしょうか。頭に思い浮かべているだけで事が上手く進む?それはありえない。そんなに人生は簡単ではない。そんなに人生は単純ではない。複雑だ。頭に言葉を思い浮かべて生活するだけで何事も上手くいく、なんて事はありえない。ありえない。そんなことなら、皆やってるよ。皆、幸せになってるよ。そう考えると真理が存在したとしても一つの言葉で真理を示すのは不可能ということになります。恐らく真理は『感覚的な何か』です(真理は存在するという前提ありきですが)。言葉で真理を表せないというのは分かりました。言葉と言えば、人の思考も言葉です。人は言葉を媒介にして物事を考えます。人は誰しも考え事をする時、頭の中で言葉を使っているのです。『これは~にしよう』だとか『これは~するべきかもなぁ』だとか。こういった思考は全て言葉です。当たり前のようですが、この事実をまず認識しておいてください。さぁ、先程の話に戻りますが、『言葉で真理は表せない』のだとしたら言葉である思考もまた真理を表せないということになります。『言葉で真理を表せない』のならば『言葉である思考も真理に到達出来ない』。『思考が真理に到達できない』のに何故我々は考え事をするのでしょう。考え事の意義とは?何故人は考えるのか。無意味なのに。飛躍しすぎ?いや飛躍しすぎではない。真理は見つけられなくても普通の答えには到達できるのが思考?日常を支える基盤?本当だろうか。人が考える時、それは何かを解決する為である。何かを解決する為に人は考える。しかし、考える事によって何かを解決するのは可能なのか。考える事で何かを解決できていると思っているだけではないのか。考えて解決する事もあるが、全てではない。つまり『考えても絶対に到達できない答え』は存在するのではないだろうか。そして私が考えるに『考えても絶対に到達できない答え』があるとき、その問題はそもそも『問題という存在ではない』のである。数学の問題は、確かに問題である。真なる問題である。しかし日常に潜む、我々が問題にしたがる様々なトラブルはそもそも問題として捉える事が出来ないのではないか。例えば『バイト先の誰々が意地悪だ!』だの『好きな子に告白できない!』なんてのは一見問題のようであるが、それに明確な答えはない。明確な答えが無い物は、そもそも問題ですら無いのである。とするならば日頃、我々が考えている『問題』なるものについて思考を巡らすのは意味のあることだろうか。いや、無意味である。無意味極まりない。今までの論述の結論を言おう。『日常生活における思考の多くは我々にとって無意味である』。これを認識することによって私達は漸く次のステージに進める。『日常生活における思考の多くは我々にとって無意味である』。無意味なんだ。無意味だから考えるな。余計な事を考えるな。考えて嫌な思いをするな。無駄に苦しむなよ。な?日常の考え事は無意味なんだってよ。それなら考えなくていいじゃないか。考えないってことは、過去も未来についても勿論考えないってことだ。今感じるものだけで生きるってこど。『そんなの動物的で嫌だ』と言う人もいるかもしれないけど、『これが本来の人間の在り方』だ。あれこれ考えるのは『人間の本来の姿ではない』。人間はどこまでいっても動物だ。しかし考える能力を持っている。考える能力を持っている。そして我々は考えずにはいられない。止められない。辞められないのである。『止まらない思考』というのが人間の原罪である。我々人類が皆、平等に与えられる罪であり罰である。思考は罪であり罰である。思考は苦しいものだ。考えずにはいられない。だけど、それを認識することが出来たなら、無駄な思考も排除できるようになれるだろう。無駄な事を考えているという自覚が出来たなら、その無駄な思考を無くして楽になることだってできるだろう。だから僕は、思考に依拠しない直感的な『行動』を信望する。『行動』だけでは機械であるから、私はアクセントとして『今、やりたいことだけ』やるというポジティブな行動エネルギーも付け加える。これ以上はもう本当にいらない。日常の下らない悩みなんて考えなくていい。『行動』そして『今、やりたいことだけ』。これで人生は上手く回る。考えずに今、やりたいことだけやってたら失敗するよ!だって?いいえ。失敗しない。むしろ上手くいく。何故なら我々が日常生活の中で考える物事の多くは無意味なのだから。考えて変えられるのは、その問題が問題として成り立つ時だけだ。人間関係や生活の状況に明確な答えはない。つまり日常生活で感じる問題は、それはそもそも問題ではない。問題ではないのに問題だと思って答えを探すのは無意味なことだ。無意味なのに人はその思考によって苦しむ。『日常生活における問題は大概が問題として成り立っていない。故に答えを探す為に思考し、思考によって苦しむのは無意味である。損しかしない』。だから俺は日常生活について考えない。数学の問題は考える。何故なら、それは問題として成り立っているからだ。問題ではない物を必死になって考えて、考えるから苦しんで、そんな苦しみは無意味なんだ。だから俺は考えない。絶対日常生活について考えない。一生。これからずっと。『行動』『今やりたいことだけ』。