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資本主義のその先へ 世界はユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へ

ドゥルーズの論~

 人間は性的欲望(リビドー)をエネルギーに生きている(行動している)。性的存在=生産的存在から、ドゥルーズは人間を『欲望する諸機械』と定義付けた。生産は生命の豊さ、多様性の肯定に繋がる為、ドゥルーズは『欲望する諸機械』の作動こそが、人類と生命の希望だと考える。しかし歴史上、『欲望する諸機械』はその可能性の極限まで作動した事が無い。何故なら『欲望する諸機械』を憎悪し、それを統制しようとする存在『器官なき身体』が現れるからである。マルクスによれば『器官なき身体』は様々な姿をとって現れる。封建主義の時代は『土地』の姿で、資本主義の時代は『資本』の姿で現れた。『器官なき身体』は『欲望する諸機械』を一定のルールで作動させるように強制する。これをコード化と呼ぶ。コード化された『欲望する諸機械』が勝手に規律正しく動作する姿を充実身体と呼ぶ。歴史の中で我々は土地の充実身体であり、資本の充実身体であった。しかし、『欲望する諸機械』というものの性質は本質的にありとあらゆる他の機械を結合して流れを生み出し、新しい可能性を切り開くものであるために、充実身体の上にコード化されながらも、それを非常に苦痛に感じ、それから逃れてルールから外れた動きをしようとし続ける。これを脱コード化、逃走線と呼ぶ。逃走線は欲望と『欲望の諸機械』に繋がり、欲望に満ちた社会の領域を世界に新たに編成する。資本主義も少しずつ、その限界が可視化されてきている。さて、資本の充実身体から脱コード化した時、我々『欲望する諸機械』は次にどこへ向かうのか。今日、情報が資本=著作権の軛から解き放たれ、自由に流動し始めている。封建主義時代、世界を支配する『器官なき身体』であった土地から脱コード化(脱土地化)したのは貨幣=資本であり、貨幣=資本は市場という自律的な秩序(資本の充実身体)を作り出した。今回、資本から脱コード化(脱資本化)して溢れ出している物は情報である。ということは次は情報が自律的な秩序を作り出すのか?情報の充実身体?資本の充実身体が土地の充実身体より遥かに包括的で苛烈な支配を『欲望する諸機械』に対して行ったように、新たな充実身体は資本の充実身体より更に包括的で苛烈な支配を行うだろうことは想像に難くない。フーコーは権力の支配構造が『土地(君主型)』→『資本(規律型)』→『情報(管理型』に移行すると予測した。Google検索エンジン、ウェブの構造は既に『情報の自律的な秩序』を証明している。Google本社を潰しても、また第2第3のGoogleのような検索システムが生まれるだけで、この流れは止まらない。Googleが人間のありとあらゆる活動を検索する=監視可能にすることによって『私的領域の論理、利害によって動く組織が公的空間を支配する』時代が訪れつつある。ありとあらゆるデバイスの価格が安価になっていき、テクノロジーのインフラが全人類に行き渡ると全人類が各々の創作活動をし始める。各々が情報を発信し続ける。この世界で希少なのは個人の才能であって資本ではない。ウェブは資本主義を超える。

 

 

 

 


~私の感想~

 Twitterインフルエンサーなんかは次の時代の先取りみたいなもので、企業がインフルエンサーに金をあげるという仲介が無くなれば、ダイレクトに『人気のある奴は当社の製品が無料です』という世界になる。キャッシュレスが進み、物体的な貨幣の価値が無くなると、価値は『個人の信用や人気』に移行していく。小売り業の世界では既に、より人に注目をされる販売員が高い給料を貰えるようになっている。更に社員のTwitterのフォロワー数に応じて給料が変わる会社もある。フォロワーが多いとより多くの人間に商品を宣伝できるからだ。全人類発信者時代の到来。後は哲学の可能性について。哲学って世の中的には何となくオカルトチックみたいな感じで捉えられてるだろうけど、これって『形而上学』『非ユークリッド幾何学』っていう学問なのよねぇ。オカルトとは決定的に違う。大体、西暦1500年ぐらいから人間は理性的に科学と論理を信じ始めたわけ。科学や論理で説明がつく学問を『ユークリッド幾何学』という。直線は永遠に伸びていくはずだー、とかね。数学の世界や科学、化学の世界はユークリッド幾何学の世界。勿論、ユークリッド幾何学がこの500年の間に残した功績は数しれないし、僕ら人類にとってユークリッド幾何学は必要だった。進歩の為にユークリッド幾何学は必要だった。だけど今、ユークリッド幾何学の限界にぶち当たっている。ユークリッド幾何学では説明できない事柄が可視化されてきている。そこで再び注目されているのは非ユークリッド幾何学である。そんなオカルトなんて、と思うなかれ。先ほど記述したドゥルーズの論は1972年に書かれたものだ。ドゥルーズは1972年に既に資本主義の先を見ていた。非ユークリッド幾何学ユークリッド幾何学の先を行くのかもしれない。哲学は数学や科学の先を行くのかもしれない。500年間、人々に蔑まれていた哲学の本当の価値を遠くない未来に人々は知ることになるだろう。