Taker.

趣味を大切にしたい。

他者に如何に自分を幸福な人間だと思わせるか躍起になるのではなく、自分の中心から湧き起こる純粋なワクワクの感覚を信じて突き進め。

注釈

*本文では客観的に存在する普遍的な幸福を『真の幸福』と呼ぶことにする。

*『ワクワクの感覚』は『真の幸福』と同義。

*偽の幸福と真の幸福が存在すると仮定する。

*自分は幸福であると感じているが、普遍的な幸福をその人間が得られていない時、その本人が感じている幸福を『偽の幸福』とする。

*偽の幸福と真の幸福を区別する手段としては、真の幸福を感じた時、我々は『ワクワクの感覚』を得る。これは言葉では表せない。『ワクワクの感覚』は経験値と言っても良いかもしれない。それは微細な筋肉の運動であったり、本人の周りから立ち上るオーラや、分子的な変化から分かる。
 
*本文は宗教の話とは全く関係ありません。個人的に宗教全般が好きじゃない。。非論理的なので。筆者は宗教全般はまやかしでオカルトで詐欺もどきだと思ってます。哲学は論理で成り立つ理性的な学問です。宗教は人を救うけど、それは偽の救いで、真の幸福ではなく、偽の幸福を掴まされてる。この真と偽の境界の話が本文の骨子です。

 

 

 

 

 

 


はじめに

 
 一般的にこういう事をするのが幸福だとされているからそれをする、というロジックで動く日本人や、決められた幸福観の中でしか生きていない日本人、他者に如何に自分を幸福な人間だと思わせるか躍起になっている日本人が社会に増えてきたように感じる。危機感を持って一筆認める。

 

 

 

 

 


第1章 『ワクワクの感覚』

 ワクワクって大切。なんか言葉が稚拙だから伝わりにくいと思うけど、『ワクワクの感覚』。この感覚は人生を充実させる。これかこれか、という感じで、このワクワク感を忘れずに生きていけば何かしら成功するし、常に楽しいだろう、という圧倒的な確信がある。何故だか分からねぇが、産まれてこのかた感じたことのない圧倒的な確信なんだ。毎日考えに考えて漸く辿り着いたって感じの、ストンと心にハマった感覚なんだ。絶対に『ワクワクの感覚』は大切だ。ちょっと『ワクワクの感覚』について具体的に記述してみよう。『ワクワクの感覚』ってのは勝手に口角が上がるような、ニヤァァと顔中の筋肉が緩んで笑顔になっちまうような感覚だ。身体が軽くなってそのまま空まで上がっていくんじゃないかっつう感じだ。職場から家に帰る間、ずっと楽しい想像で頭が一杯になってて、気付いたら家に着いていたって感じ。ワクワクの中身としては人それぞれだろう。一番好きな『事』、『物』、『者』。それは人によっては恋人なのかもしれないが、別に全くそれだけじゃなく、一番好きなことなら何でも良い。真に一番自分が好きなこと。本当に一番好きなこと。絵を書くのが好きだ、野球が好きだ、バスケが好きだ、サッカーが好きだ、ゲームが好きだ、音楽が好きだ、走るのが好きだ、外に出るのが好きだ、本を読むのが好きだ、勉強が好きだ、何でもありえる。それが、本人にとって本当に好きな物なら何でもいい。しかし、自分の本当に好きな物を知らない、もしくは自分の本当に好きな物を勘違いしている人間が現代社会には多いように感じる。それはこの資本主義が生み出した競争社会の中で我々が無意識に感じ取っている優生思想の悪しき部分が密接に関わっているだろう。僕らは何故、自分の一番好きなことを知らないのか、もしくは忘れているのか。まずは、それについて話していこう。

 

 

 

 

二章 なぜ僕らは自分の一番好きなことを忘れているのか

 自分の一番好きなことを毎日やって、それに没頭すると人生は最高に満たされる。しかし、こんな言葉はきっと皆何度も聞いている。そんなありきたりな事をいわれてもなぁって思うだろう。しかし、毎日一番好きなことをやると人生滅茶苦茶楽しい、というのは事実。なぜ皆がこれに共感できないかというと、『自分が一番好きなことを知らないから』、もしくは『自分が一番好きなことを忘れているから』。その自分の一番好きなことに気付く感覚ってのは大切なんだ。しかし、日本人の多くはそれに気付けていない。なぜ自分の一番好きなことに気付けないのか、また好きなことを忘れてしまうのかを書いていこう。まず僕らは幼い頃は正直に好き勝手、自分のやりたいことをやりまくる。だから楽しい。大人になるに連れて、社会に飲み込まれていく。社会とは何か。日本の社会は資本主義である。競争社会。つまり人と比べる。上下の関係。僕はこれを持ってますぅ。私はこれを持ってますぅ。私は今こんなことをしていますぅ。僕は今こんな経験をしているよぅ。競争社会では自慢が横行する。それは何故なら自慢して自分を他人より上に押し上げたいから。自分の中で一般化された大衆を想定して『○○するのは凄いことだ』『○○することはステータスになる』『○○すると羨まれるだろう』という『社会的に幸福だと思われるであろう行動』をする。例えば、女子高生、女子大生が二週間に一回の高頻度で女友達とディズニーランドに行く現象。『私達楽しんでまぁーすっ!!♪』みたいな顔を作ってInstagramに写真を公開しているが、実は彼女らはディズニーランドで遊ぶ事を楽しんではいない。楽しんでると彼女達は信じ込んでいるが、決して楽しんではいない。彼女らがやっているのは『私達ディズニーランドに来て可愛い写真撮ってますぅ=この写真を見た人は私達の事を羨ましいと思うだろう=世の中的に皆が幸せだと思うであろう事を私達はやっている』。そう、彼女らが得ているのは直接的で本質的な楽しさではなく、他人の視点を経由して私達は皆に幸せだと思われているだろう、という間接的に得られる偽物の幸福なのである。つまりそれは自分自身が感じる『真実の楽しさ(ワクワク)』(幸福にも真と偽の境界は存在する。偽の幸福だと自分は幸福だと思っているが、真の幸福を感じた時に得られる経験値は手に入らない)ではなく、『一般的にこういうことをするのが世の中的には楽しい事とされている』というロジックで行動しているのである。女子高生、女子大生の例は分かりやすい例だが程度の差はあれ我々ほとんどの人間がこの『一般的にこういうことをするのが世の中的には楽しいこととされている』ロジックに嵌まっている。日本人の多くは『他者の視点に頼る幸福観』を信望している。『他者の視点に頼る幸福観』は脆く儚い。その幸福観では一生幸せになれない。何故なら他者の自分への評価は常に変わるからだ。また他者によって評価される事柄なので、自分はなすすべもなく、ただ他者にどう評価されるかをハラハラしながら待つだけである。幸せそうだ、と思われれば幸せになり、不幸そうだと思われれば、不幸になる。そんな不安定で曖昧な基準を持っていると一生幸せになれない。TwitterInstagramなどのSNSが『他者の視点に頼る幸福観』の代表である。我々は本当に『自分』が感じる楽しさを忘れている。幸福かどうかは自分で決めるべきだ。自分で幸福の基準を決め、自分で自分なりの幸福を追求すべきだ。そこに他者の評価はいらない。周りの視点が介在した瞬間、自分が幸福になるゲームから、他者に自分を幸福な人間だと思わせるゲームに早変わりする。それは皆、こういうことをするのが楽しいんだろう、こういうことをすると他人に自分が幸福だと思われるんだろう、という他者との比較ありきのロジックで行動しているのだ。これは本当に滑稽で、また可哀想でもある。このロジックが蔓延してしまった背景にはやはり競争社会、人と比べる社会が関わっている。日本人は『他人に如何に自分が幸福であるかを見せる』ゲームをずっとしている。『如何に自分の本当に楽しいことをするか』というゲームと『如何に他人に自分を幸せな人間だと思わせるか』というゲームのゴールは全く違う。前者を突き詰めると『真の幸福(ワクワク)』が手に入り、完全な充実を得られる。しかし後者は、本人は自分を幸福な人間だと思っているのだが、実際幸福感は得られてない状態になる。幸福の乖離が発生する。ここで疑問に思った方も多いだろう。『えっ?幸福って感じた時点で幸福なんじゃないの?』。それは違う。

 

 

 

 

 

 

第3章 『幸福を感じた瞬間、幸福になる』わけではない

 『それ』を感じた瞬間、『それ』になるのではない。『怒りを感じたから自分は怒っている』わけではない。喜怒哀楽、その他全ての感覚する事象にはイデア的な普遍的に真なる事象が一つ存在し、その真なる事象を感じていないのに、その事象を感じていると勘違いしている事も我々には多々あるのだ。幸福は感じることで得られる事象。感じるのは自分、つまり主観である。そして主観は時に勘違いをするのだ。客観的に存在する普遍的な幸福を『真の幸福』と呼ぶことにする。『感じる』という各個人だけに限定される技能は、本人の偏見や固定観念の影響下にある。ある事象を事象Aとした時、それを感じたと本人が思ったとしても、普遍的な真なる事象Aを感じていないということは有り得る。つまり感じた『それ』が、本当に『それ』であるかどうかは本人に分かる術はない。二章に挙げたディズニーランドに健気に通うJKやJDも偽の幸福を真の幸福と思い込んでるだけ。現代の日本人の多くもそうである。『これをすると他人はきっと僕の事を幸福だと思うだろう』というズレた偽の幸福を味わって、真の幸福に付随する経験値(ワクワクの感覚)を得ることなく自己満足しているだけだ。僕らは真の幸福を手に入れてワクワクするべきだ。他人に自分を幸福な人間だと思わせる事に躍起になるのではなく、他人や周りを放っといて自分の中心に存在する最高のワクワクを追求するべきだ。
 

 

 

『他人に如何に自分を幸福な人間だと思わせるか』と考えるのではなく、自分の中心から湧き起こる純粋で最強のワクワクの感覚を追求しよう。