根拠の無い自信と共に、無意識の内側に没頭し、感覚に溺れる
意識のある行動には意味がない。何かを決めてからやるだとか、計画してからやるだとか、そんなものは全て偽物で、本当の意志はそこに介在しない。
計画した事は常に過去の事になっているし、過去の願いをいつまでも考えていても真の欲求を果たす事はできない。
欲求は凄まじい速さで移り変わる。
真の自分を手に入れる為には移り変わる自分を一瞬たりとも見逃してはならない。
常に自分らしく、かつ自然と調和する為に意識的に動かない事が必要だ。
意識的に動かない。
計画的に動かない。
無意識と直感と感覚の世界に真の道がある。
真の道を歩けるようになれば、志のままに行動することが可能になる。
周りを気にする事は一切なくなり、自然体でいることが可能になる。
また、もう一つ大切なことがある。
それは根拠のない自信を持つということだ。
根拠のない確信を持つということが大切。
何かを成し遂げて自信を手に入れるのではない。
根拠のない自信があったから何かを成し遂げられるのだ。
根拠のない自信。
『俺はなにがあっても成功する』というような感覚が大切。
何事も全て自信から始まる。
自信があるから動ける。
自信は全ての幸福を連れてくる。
ハリーポッター謎のプリンスの幸運の液体『フェリックス・フェリシス』のように、幸福になると信じれば人間は幸福になるのだ。
幸福が約束されると人は自信に満ち溢れる。
その感覚は大切だ。
本当に大切だ。
自信は言葉の通り、自分を信じる事だあり、自分を信じる事に理由はいらない。
そもそも信じるという行為自体が0の認識から始まる感覚的なもので、誰かを信じるにしても、それは自分から始める行為なのである。
0地点から確信を捏造する行為が信じるということである。
彼はこういう人間だから信じる、という文章は一見理路整然としているが、この文章を追究すると、そこに因果関係は見られなくなってくる。
誰それの、どういう行為が信頼できそう、と言っても、その行為は何故信頼に足るのかと、ソクラテスのように問答を続ければ、そこに答えは無い事に気付く。
つまり、信頼、信じる事は0から始まる認識なのだ。
『信頼』は『勝手に相手を信じることにする』という意味であり、『自信』は『勝手に自分を信じることにする』という意味に過ぎないのだ。
自信、それは自分を信じるということ。
それは0から始めるということ。
それは無から有を創り出すということ。
自信は0から創る事ができる。
自分は絶対に大丈夫だ、何があっても上手くいくという確信を創り出せば、物事は次第に良い方向に向かっていく。
上手くいったという事象があって自信を持つのではなく、自信があったから上手くいくのだ。
一度この感覚が進み始めると正の連鎖が止まらなくなる。
この好循環を止めてはならない。
一度止めると再びこのサイクルを創り出すのは至難の業だ。
現代の世の中に存在する成功者達は、この好循環を人生の良い時期に偶々獲得できた人間達だと僕は確信している。
勿論本人の努力も必要だが、成功するまでの間に『努力できるという感覚』を持っていたのは既に好循環への道を歩いていたからである。
既に自信があり、真の道を歩むことができていた。
真の道では常に自然体で、意志のままに動くことができる。
真の道にいたから努力できた。
そしてそのまま成功した。
真の道には様々な要素が含まれる。
それはバランスであったり、中庸であったり、侘び寂びである。
しかし、それらも意識して実行してしまうと価値と意味がなくなる。
無意識のままにこれらを取り入れて初めて実力に繋がるのだ。
意識的に行動しない。
計画的に動かない。
根拠のない自信を持つ。
そして真の道を歩む。
真の道を歩めば下らない悩みを持つことがなくなる。
周りを気にしなくなる。
自分らしく生きられる。
常に志のままに行動できる。
それは生命にとって最も楽な状態であり、最も自然体であり、最も幸福なことだ。
志のままに行動するから、成功できる。
真の道を歩むことは人生の成功であり、幸福であり、自由であり、全ての目標の先にあるものである。
勝つ前に、勝てると思う事が大切。
勝つ前に、勝てると言う事が大切。
その根拠のない自信が扉を開く。
そこから始まる。
何でもできると思うこと、何でもできると言うこと。
そこから全ては始まる。
根拠のない自信を持つことで、まず余裕を獲得し、最後にバランス感覚を手に入れる。
余裕だという思いがあるからバランス感覚が手に入る。
バランス感覚があれば、自然と一体化できる。
自然体を手に入れれば、思考せずとも、その時の最適解が出せる体質になる。
そうなれば全て思い通りにいくし、何事も必ず成功する。
意識せず、計画を立てず、根拠のない自信を持ち、その無意識の状態のまま揺蕩う。
自ずと幸福が此方に近付いてくる。
意識せずとも勝てる。
いや、意識しないからこそ勝てる。
根拠のない自信を保持したまま、自分の感覚を大切にする。
根拠のない自信を保持したまま、自分の感覚に溺れ、そのまま揺蕩う。
そうすれば勝手に、勝利は此方に流れてくる。
中庸を言語化するときっとこんな風だろう。
世界のバランスを言語化するとこんな感じだろう。
僕は直感的にこれに気付いた。
ここがまだゴールではないかもしれないが、これからも思考は続いていく。
後は、実践あるのみ。
この無意識の実践が難しい。
矛盾しているようだが、矛盾という曖昧な世界の中に真理は存在するように思うのだ。
何を言っているのか分からないと思うが、僕の感覚的な嗅覚がそう言っている。
感覚や直感は何かを指し示している。
僕のアンテナが間違っていなければ。
自分のアンテナが誰よりも正しいという感覚はある。
根拠のない自信が大切なように、自分の真の才能を確信できるのも自分だけであるように直感する。
直感に従い、なるべく言語化していきたい。
しかし言語は思考の十割を表現するのは不可能であり、人間どうしのコミュニケーションを円滑にするための手段の一つに過ぎない。
言語は不完全で、欠点だらけの表現技法だ。
だから直感や感覚を言葉に変換できない。
だけど、言葉に変換できないからって、それが無い訳ではないんだ。
それは確かに存在する。
言葉では照らせなくても、確かに存在する。
それは真理であり、僕の思考の流れそのものである。
それでも無理やり言葉を用いて滲み出るニュアンスだけは伝えたい。
『意識しない』『計画を立てない』『根拠のない自信を保持したまま、感覚に溺れ、揺蕩う』。
そうすれば真の道への扉が開く。
真の道とは、自我を超越した感覚であり、自分の意識の中だけに存在できる技能であり、生命の目指す場所である。
真の道は『幸福』『自由』『満足』『楽』『知恵』『成功』『勝利』を内包する。
しかし真の道を歩むためには無意識な世界に没頭しなければいけない。
『根拠の無い自信を保持したまま、無意識の世界に没頭し、感覚の内側を揺蕩う』。
これをクリアできれば、真理を理解できる。
もしくは真理に近付ける。
これは本当に大切な感覚だ。
全てにおいて優先される。
これが東洋思想でいう無我の領域であり、悟りなのだと思う。
無我と悟りが生命と世界の目的であるように僕は直感する。
そして無我と悟りの領域に入る為には『根拠の無い自信と共に、無意識の内側に没頭し、感覚に溺れる』ことが条件である。
これが今まで生きてきて感覚的に理解した現時点での『全て』に対する答えである。
真の道とは悟りや無我の事である。
悟りや無我は全ての無と有に繋がる。
しかし無我と悟りは、それらの『全て』から最も遠い所にある。
無我と悟りは生命と世界の目的である。
『無我の境地』『悟る』ということ。
無我の境地に至る為の条件は『根拠の無い自信と共に、無意識の内側に没頭し、感覚に溺れる』。
無我の境地に辿り着く事が出来れば、自ずと悟る。
順序は無我の境地→悟りだ。
無我は『情熱』と『成功』を、悟りは『美』と『善』を齎す。
無我→情熱と成功。
悟り→美と善。