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『意味のあること』より『無意味なこと』をしよう! ~『無意味』のすすめ~ 人生そのものに意味が無いからこそ、僕らは遊ぶ事で人生に意味付けをする。 遊びは無意味だが、無駄ではない。 遊びは無意味だが、それは人生そのものだ。 正直に世界を見よう。

『変わってる』『意味のないことをする』


洗顔』『飯』『筋トレ』


他者に負けじと合理的に論理的に『価値のあること』だけやるのは正しいようで正しくない。


資本主義による競争社会では皆『意味のあること、利益になること』だけを追求するが、それだと却って狭い世界に閉じ込められることになる。


『遊び』は『無意味』だが『無駄』ではない。


『遊ぶ心意気』はマイナスではなくプラスで僕らの世界を拡張してくれる。


世界を多角的に見せてくれる。


生きてる世界を多層に広げてくれる。


『人生』は本来『無意味』だが、『無意味』そのものである『遊び』が僕たちに人生の意味を与えてくれる。

 

 

 

 


僕にとっては人間が服を着ているのも、皆カッコつけて生きてるのも、映画を観るのも、アニメを観るのも、ゲームをするのも、人と会うのも、ライブに行くのも、カラオケに行くのも、全てが『意味が感じられない』事象で、『意味が感じられない』ことをしている僕達は非生物的で、見ていて違和感がある。


僕らのあらゆる営みは全て嘘臭くて、おままごとで、ごっこ遊びで、大人も子供も人間全てが人間という役を演じているように見える。


それは恐らく、社会のシステムが個人の手の届かない所まで大きくなったことで発生した戸惑いなのかもしれない。


動物の癖に服を着て、法律があって、社会のhierarchyがあって、差別があって、欺瞞と嘘に満ちている。


そんな世界なのに皆、なに知らぬ顔で毎日を暮らしている。


これが当たり前だと思い込んで生きてきたが、無意識の領域でこの違和感に支配され、最近では生活することもままならない。


果たしてこの世界は何なのだろうか。


なんなんだこの壮大なごっこ遊びは。


リアリティと真実味がない。


形式と嘘っぱちを、本気で『意味がある』と信じ込んで、おままごとを全力でやる僕ら。


全ては形式とおままごとなのに、それを皆、当たり前の常識だと信じて全力で生きてる姿が違和感である。


服を着て、カッコつけて、大学行って、授業を受けてる大学生も、朝早く起きてスーツに身を包み仕事に向かうサラリーマンも、全てが形式でシステム的で、構造的で、社会的で、本来意味のない事のように思える。


それはきっと『人生』が本質的に、主観ではなく客観的に『無意味』と言わざるを得ないからだと思う。


人生に自分で勝手に意味付けをすることは可能だろう。


サルトルヴィクトール・フランクルも最初に与えられているべき『人生の意味』を一旦置いといて、人生は自分で意味付けをする事が重要だと言っている。


それは前向きな意見だが、逆に言えば『人生そのもの』に意味はないとハッキリと言った事と同じである。


そもそも人生に意味はないから、自分で見つけて、自分で決めれば良い。


自分が人生に何かを求めるのではなく、人生が自分に何を求めているのかを知れ。


このような言葉の本意は、人生の能動的意味は無いとし、受動的にその自分の人生をどう解釈するかという話になっている。


人生が無意味だとすれば、そんな無意味な人生の癖に、人類は合理的だとか論理的だとか言って、利益と利潤の為だけに機械のように生きるのはおかしいんじゃないか。


そもそもの人生が無意味なのに、意味のあることだけをやろうとするのは、矛盾しているというか、人生でいくら意味のあることをやろうとしても、そもそも人生自体が無意味なのだからして、どう頑張っても全て本質的には無意味な事となるのである。


しかし、そんなネガティブな世界の真実に『遊び』という概念を導入してみると、世界の基準が一変する。


僕らは考えるべきである。


そもそも無意味は悪いことなのか。


無意味はマイナスなことなのか。


無意味だから人は不幸になるのか。


答えは否。


無意味でも人は幸福になれる。


無意味と不幸は因果関係にならない。


無意味と不幸は全く別のジャンルの話で交わらない。


無意味でも幸福になれる。


むしろ、無意味だからこそ、幸福を得られるのかもしれない。


『遊び』という概念において存在するのは『楽しい』という基準だけである。


それが『楽しい』か『楽しくない』か。


それだけ。


無意味でも楽しければいい。


人生が無意味なことと、楽しいかどうかは、全く関係がなく、無意味でも僕らは120%人生を楽しめる。


それでいいじゃないか。


人生が無意味とか関係ない。


『遊び』が楽しければそれでいい。


つまり『遊び』の概念はこの世界の真実のルールを覆す新たな基準を設定するのだ。


だからつまり『遊ぶ心意気』は人生を救うということである。


『遊ぶ人生』が一番幸せだ。


人間は幼い時の方が拡大した社会のルールに染まっていないから、正直で真実の世界の姿を見ることができる。


そんな子供時代の『遊ぶ経験』は実は人生そのものを救うもので、僕らは大人になるに連れて、『意味のあること(本当は全て無意味なのだが)』に捕らわれ、『無意味』な『遊び』を忘れてしまう。


しかし大人になってもそういった『無意味』な『遊び』を続けることが非常に大切で、全く価値にならないこと、利益にならないこと、意味のないことにこそ『人生を豊かにする秘宝が眠っている』。


利益になること、意味のあることも良いが、それに支配されず、本質的には人生は無意味だという真実に気付き、無意味な事に価値を置き、無意味なことを楽しむということができれば、その人の人生は死ぬまで楽しいものになるだろう。


人生はそもそも無意味で、遊びもそもそも無意味なものだから、無意味な世界に無意味な価値基準があるという点で『遊び』は人生そのものと深く関連付いている重要な事柄なのである。


『意味のあること』より『無意味なこと』をしよう ~無意味のすすめ~ 生命は本質的には無意味である。だからこそ僕らは『遊ぶべきだ』。