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映画『ララランド』感想文

・あらすじ

 主人公は二人。セブはジャズを敬愛する生粋のピアニスト。夢は自分のジャズを披露するお店を持つこと。もう一人の主人公はミアちゃん。女優を夢見る女優の卵。舞台がロサンゼルスで、ロサンゼルスと言えばハリウッド。ハリウッドと言えば華やかな世界ですよね。夢を叶えたセレブ達が夜な夜なパーティーをして、女優俳優が煌びやかな生活をしている場所。それを夢見る女優の卵、俳優の卵も多い。そんな夢見る若者二人が互いに夢に向かって努力しながら、恋に燃える話であります。

 

 

 

・私の感想文

 もう始まりが良かったよね。始まりから『さぁ!ミュージカル始まるぞ!』みたいなね。人々が高速道路の渋滞の中、車の上に立ち、踊る踊る。映画の最初の方は、まぁ想像通りのミュージカルというか、若い二人が夢を追いながら、恋に燃えるみたいな感じで、『んーこのままハッピーエンドいくのかなぁ。それだと少し安っぽくなる気が・・・』なんて思ってたら案の定、仲違い。しかし仲違いなんてのは良くあること。もうベタだよね。起承転結はベタな手法でしょ。転は絶対映画に存在しますから。映画だけじゃなく、小説も。そんな転を見せられて『でも最後は結局、仲直りして結婚して夢叶えるんでしょ』と思ってたら画面に『五年後・・・』の文字。ん、と思ったらミアは女優になるという夢を叶え、そして全く知らねー金持ちそうなセレブオジサマと結婚してるではないか!!!!?そして子供もできてる!!!セブとミアがすれ違いで『俺たち、夢を頑張って叶えよう。俺とお前は一緒にはもういられないけど、ずっと愛してる』みたいな雰囲気で別れた後、五年後に既にミアが家庭を持ち、子供も・・・。そして知らん夫も・・・。うー。これは流石に想像出来なかった。他の人と結婚してるだとか、外の人と付き合ってしまっているだとかは想像出来ますけど、もう子供がいるってのは・・・。ここで、もう二度とセブとミアの恋が実る事はないと確定してしまうわけです。ここはリアリズムですねぇ。序盤のファンタジー的な、夢物語的なフワフワした楽しい雰囲気から一転、夢を叶える事の難しさ、現実の厳しさ、社会の厳しさみたいな、リアリズムに入っていくのが評価ポイントですね。後、エマストーン好き。眼が大きい女優さん。かわい。

 

 

 

・ララランドの豆知識

 ララランドはロサンゼルスを指す言葉でもあります。またララランドという言葉にはハリウッドのセレブを夢見る女優俳優の卵達を揶揄するような意味も含まれます。この映画に出てくる舞台も過去の名作映画の舞台になったようなハリウッドの有名な場所になってます。監督が意図するオマージュだとか、表現だとか、僕は映画批評家のプロじゃないので、素人そのものなので、学も足りないので、本当にララランドを知りたいなら、高橋ヨシキさんだとか、ライムスター歌丸さんだとか、町山さんだとかの感想をYouTubeで観てください。

 

 

 


・クライマックス付近のシーンを語ってみよう

 最後のセブが立ち上げたジャズバーのシーンで流れる抽象的な表現は、彼らの『こうなれば良かった未来』なんだろうな。だからこの話は、過去に愛し合った彼らの思い出を振り返る話。もう二度と叶わない恋。二人は既に別々の道に歩み始めてしまっている。その虚しさが心地良かったなぁ。叶わない美しさ。あぁ、最初からこの時点を軸に過去の話を回想してたんだなぁって。それでお互い去り際に頷き合って『これでいい。お互い別の道で頑張ろう』みたいな感じで終わってく。これね、個人的に好きでした。展開が好きでした。この切なさ。『君の名は。』も最後、出会わなければ絶対最高だったんだけどなぁ。より切なさが大きくなる。すれ違いの切なさ。でも世の中の8割の人間は感受性低いからさぁ!分かりやすく『切なさ』を演出しないと駄目なわけよ。だから最後に再会させな。それじゃないと、お前ら分かんねーだろ。ぽまいら。何がバッドエンド嫌だ、だよ。その方が作品として締まるだろ。そのバランスが分からないかな。 

 

 

 

 

・感受性が低い人間が大多数のこの世の中に向けて

 この『ララランド』。一言で言えば素晴らしい作品。展開が素晴らしい。夢を叶えようと奮闘する若者達が最後にはハッピーエンドを掴む、なんてのはありがちですが、それとはまた一味違った心に染みる作品でした。映画を見終わった後、ネットでいろんな人の感想を見て回ったんです。そしたら、まぁ何というか。やはり、感受性が強い人間というのはマイノリティで、多くの人間は、物事を平面的にしか捉えられないんだなと、人間に対していくらか失望しました。ただ、感受性が低いぐらいの方が、今の時代生きやすいです。私なんかは感受性が異常に高いもので、人の表情、顔の筋肉の些細な動き、さりげない仕草でその人の本心が一瞬で見えてしまいます。これを良いことだと言い切れるでしょうか。感受性が高いのは不幸な事でもあります。人を信じられなくなる。ただ、映画を鑑賞したり、音楽を聴いた時、自分の心が大きく震えて、感情の波が押し寄せてきます。この人物は今何を考え、どういう感情で、この言葉を紡いでいるのか。私の心に響いてくるのです。そんな私が『この感想は違うだろ・・・』という物を発表。人の感性、感想は人それぞれだろ!という意見も分かりますし、僕も今の今までそう信じていたのですが、やはり感性にも正しい感性は存在すると思うのです。正しいというか、繊細故に到達できた本当の感想というのがあると思うのです。感想に間違いも正しいも存在すると思うのです。感性も然り。感受性の低い人間が語る『人の心』は往々にして的外れだ。それを私は正していきたい。何故こんな一見性格が悪いような事をするかというと、彼らが同じ人間なのか信じられなくなるからです。何故こうも感受性に差があり、分かる事を分からない人がいるのか。感受性の低い人間は感動を知らずに生きて死んでいく。感動の波を感じ取れる私は幸せなのでしょうが、どうしてこうも人間に差があるのか。そんな不条理さ、不思議さからくる一種の怒りをエネルギーにして、この記事を書いている次第で御座います。この『ララランド』という映画も日本で流行ったようですが、恐らく日本人の9割は映画『ララランド』の良さを全く理解出来ていないでしょうね。薄っぺらく物事の表面だけしか感じ取れない人間が日本には多いんでしょうか。それとも世界的に見ても、そういった感受性の低い方々がマジョリティーなのでしょうか。とりあえずネットに書かれている感受性の低い方々の間違った感想を逐一論破していこうと思います。

 まずはこんな感想がありました。『急な転換だし、なんか魔法みたいな感じが出てきたりして訳わかんなかった』。魔法というのは恐らく、二人がダンスをしていたら空に浮かんでいくシーンなどを指しているのでしょう。いやいや心情表現でしょ。心情表現、抽象的表現は映像作品では普通でしょ。普通にリアリズムで表すより、非現実的に表現する方が心の波がダイレクトにストレートに伝わってくるでしょ。論外でしょ。魔法ってなんだよ。映画の文脈を理解しろ。映画ってやっぱり学が無いと楽しめないね。

 またこんな感想がありました。『最後にミアはワークライフ共に充実したんですが、セブは夢を叶えられなかった。バッドエンド。夢を叶えることと恋は両立不可能なんでしょうね』。なんでそんな現実的な目線でしか映像作品を評価出来ないんだ。何か変にリアリティ重視で映像作品観る人もいますよね。

 

 

 


・でもでもでも酷評した人の意見も分かっちゃう

 彼らは我が儘。本業以外の仕事を蔑ろにし過ぎ。パートのバイトを適当にやってみたり、オーディションあるんでシフト入れませーんみたいな。そんな彼らです。俺たちは叶えたい夢があるんだ!という志を免罪符に、結構我がままで、ミーハーで、子供っぽい所もあります。それにイライラした人も多かったようです。この酷評は理解できる。分かる。だけど、単純に『バッドエンドが嫌だった』みてえな馬鹿の意見は聞けねえなぁ。お前はずっとスポンジボブとか見てケタケタ笑っとけ。第三者の外部要因が一切無かった。二人だけの関係しかない。ずっと二人だけ。周りが暗くなり、主人公二人にだけスポットライトが当たる。何かレイシストというか、選民思想的な、大衆の存在感を蔑ろにするのが、この監督の特徴らしい。これは長所と言うべきか短所と言うべきか。話が始まりから終わりまで閉じてしまっている。二人の陶酔は深くなり、彼らを変える人間はいない。非常に独善的で幼いと言えば幼いという作家性が現れた作品。しかしこれが味であり、カルト的人気が出る要因でもある。二人だけの世界という映画は『時をかける少女』や新海誠さんの『君の名は。』などと同じ系統。所謂『世界系』と言われる閉じた世界の魅力を映し出す作風。ララランド見終わった後、『君の名は。』を思い出したんだよなぁ。いや本当に。よくよく考えてみると作風同じだったわ。それでも安っぽいハッピーエンドで終わらないだけ、ララランドは優秀だった。